条坊制と朱雀大路

閑人或いは酔っ払いの囈語

日本は治安が悪すぎる。

 これはもうタイトルの通りなのだが、さすがにやっぱりハードな犯罪が多いと言いたいわけではない。何ならスリや置き引きさえ(体感的には比較的)少ない日本であるが、もっとこうソフトなところでは死ぬほど治安が悪いと言わざるを得ない。

 都内に住んでいると、わざとぶつかってきて怒鳴りつけてくるオジサン、自分から割り込んできてぶつかったのに怒鳴ってくるオジサン、傘を持ち自転車を片手運転しながら邪魔だと怒鳴るオジサン。そんなのばかりである。

 総じて(クソ)ジジイ。こんなに治安の悪いところにいては身も心も持たないし、なによりこんな連中が社会に出て働いている(であろう)というのがもう、世も末でしかない。初対面の人、知らない人にぶつかっていったり怒鳴ったりしてはいけませんよ、と小学校で習わなかったのだろうか、と思ったが、たしかにこんなことは当たり前すぎて習わないな。なにか言いたいことがあるなら、普通に話せばいい、論理的に組み立てた言語で伝えればいいと思うのだが、そういう、人間が人間たるのに必要であろう能力のない人というのがたまに遭遇するレベルで存在している社会が恐ろしくてならない。

 ちなみにだが、統計的なことは知らないが、経験的には不思議と女性からそういうことをされたことはない。自分はいわゆる高身長ではないものの一般的な女性よりは確実に身長が高いので、身長差からしてタックルしようと思わないだけかもしれないが、いてもせいぜい、満員電車でカバンを押し付けてくる(!)くらいで(それもまあ黙ってじっと視線を投げかけてみるとやばいと思うのか少しは控えめになったりする)、タックルしてきたり怒鳴ってきたりする人はまずいない。主張の強いオバサンも、ゴリゴリ言ってくることはあっても、比較的冷静に(嫌味に?)話すし、ぜってぇ思ってねぇだろと思っても「まあ、悪いわね」などと言われてしまうと、なんかもういいやという気分になってくる。人類は、グイグイくるオバサンに弱い。

 

 とはいえ、ジェンダーに関して本質論的立場をとろうとは思っていないのも事実だ(正直、2018年にそんなことを言うのは知的にヤヴァイ)。一時期新宿駅でのタックル男なるものが話題になったが(話題になっただけで解決はしてなさそうだが)、あれが「暴力」であれ「性暴力」であれ、男性が生まれつき暴力的な存在だから仕方ないとはならないし、性別以前に人間なんだから諸々理性でコントロールしようぜ!という話である。

 そして、理性を失った(としか思えない)可哀想なオジサンたちを非難してばかりするのも不憫なので、多少なりとオジサンサイドに思いを馳せてみたい。というのも、もうすぐ終わるとはいえ平成生まれの若者にはわからないというだけで、オジサンからしたらぶつかりにいって怒鳴ることこそが適切なコミュニケーションなのかもしれないのだ。おしくらまんじゅうみたいに「ふんぬ、ふんぬ」言いながら揉みくちゃになるのが快感であり、人と人の繋がりを確認し合う崇高な行為である可能性も否定はできない。だから、俺のような世代間の問題は出てきたとしても基本的に男同士でのそれが問題にならないのは、これまで長らく男社会のなかで絆を確認する方法として広く普及し、そのようなかたちでみなが愛し合うことを(無意識的に)目指してきたのかもしれない。

 なんていう無茶苦茶な解釈をしてみたものの、これ、現代の法治国家だとなかなかキツいな。ねぇ、知ってる?「暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、二年以下の懲役若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する」んだって、というやつである。近年やっとパワハラ体罰が深刻な問題として捉えられるようになってきた感があるが、愛だろうが何だろうが暴力は暴力でしかない。

 

 さて、ふと気になって駅員への暴行事件についての統計を調べていたのだが、加害者が全年齢にわたっているところを見ると(平成28年度は30代と60代以上がそれぞれ41件、22%で同率)、自分の見た目がチャラいから若い人には避けられているだけで世代間の差というのも案外ないという可能性にも思い至った。そこらへんも最初から調べて書けよ!と思うかもわからんが、まあ、個人的には考えながら書くことが作文の醍醐味なので....。だってほら、ぐちゃぐちゃ考えなくても最初から結論が出ていることについてつらつらと書き連ねようなんて思わないでしょう?

 そんなわけで(そんなわけでもないが)、急にマジレスすると、「日本人」、「男性」、「女性」、「年代」なんていう属性、でかすぎる主語的なもので語れることはほとんどなくて、そこには個人差しかないというのが現実であろう。でもね、たまたま実体験としてはジジイしかいなかったから、それについて少し考えたいと思っていた。いつか自分もあんなクソジジイになってしまうのだろうか....という悲しみもある。

 りゅうちぇるの登場だとか、近年やっとこう「男らしさ」の見直し的な流れもでてきてるんでしょうけど、男らしくあることで周囲にあたり散らさなきゃいけなくなるならそんならしさはさっさと捨てちまえよというのが、「常識」のない若者の思うところ。けれどももしかしたら、今にはじまったことではなく、昨今は世界的常識になりつつあるように、ほとんどう○このような男尊女卑国家であり、#MeToo運動が盛り上がらない時点でいろいろお察しなこの不思議の国ではクソジジイを再生産していくことで、ある意味国家を維持しているのかもしれない。某医学部で女子受験者(と一部の浪人生)が減点されていたことが問題になったが、そうやって出産を望む女性には到底続けられないような過酷な労働環境を守り、「亭主元気で留守がいい」と言ってもらえるよう日々努めている=男性的なものの再生産をすることで、精神的な満足なり安定させつつ非人間的な環境のなか働くことも辞さない人間が作り出されている、とか言えないような言えるような。

 女子の減点は必要悪だったと言う人たちは、本当に心底すごいと思う。俺だったらぜったい、よし、これを機に子育てしながらでも働けるような労働環境にしちゃおうぜ!とか言って女性の権利問題に乗っかっていってしまいそうなものなのに。経営側がより奴隷的に働く存在を欲するのはともかく(それはそれで長期的に見て利益になるかはわかりませんが)、現に働いている人たちが激務を維持したいのはまさに「社会人」の鏡。激務じゃないと回らない、ならそれを改善したいし、改善できないなら辞めるわ、という感覚を持つゆとりからは想像を絶する生き物なのだ。「社会人」。

 

 なんとなーく、ジェンダー的な、そうでもないような話になったので、これまたなんとなく話を広げてみたいのだが、なんというか、よくよく考えたら敗戦して憲法変わるまで女性には参政権がなかったし、人権とかそういう難しいことはわからないのにジェンダーの平等を目指すなんていうのは可哀想なのかもしれないと最近気が付いた。

 LGBTに関する発言で炎上した議員がいくらかいたが(人権もとい憲法がわからない人間が法治国家で議員をやるということはあってほしくないが)、これまで信じてやまなかった男女二元論異性愛主義が間違ってたからハイ今日から違う価値観を受け入れてくださいねって、可哀想じゃね?と。天動説を信じている人たちに地動説を説いてもしょうがなくね?というのがLGBT諸々に関する自分の基本的な立場なのだが、今の時代に高等教育を受けていればまだしも、そうでない上に理解する気のない人々に理解しろと言っても難しいのではないだろうか。

 むろん、理解できない人間に理解できないことを理解しろというほど非人道的なことはしたくない、ということがあるにしても、LGBTの人権を無視していいということではない。信仰は自由であるけれども、それを他人に押し付けるのは違うよ、という話である。相対性理論を理解できないことが相対性理論が間違っているという証明にならないように、ジェンダー論が理解できないということはそれが間違っているという証明にはならないし、小難しいことは抜きにしても、とりあえず人が嫌がるようなことを言うのはやめよ?と。わざわざぶつかりにいって怒鳴る必要はないのだ。

 全然関係ないし、すごくどうでもいいことだが、うちの戦前生まれの祖父は、医学部の減点問題を見て「今は男がどうとか女がどうとかいう時代じゃないのにね(´・ω・`)」と言っていて、カッコイイ、(どちらかというと早死にしたいけど)自分もこういう高齢者になりたいなぁと思う今日この頃。

 

 ところで、法整備の遅れを含め、これ以上人権後進国の真価を発揮するようになると、人権とかそういう難しいことがわからないにしてもなかなかしんどいというか、今以上に閉塞感の漂う殺伐とした空間が発生しそうなので、どうにかなったらいいのになぁというのが個人的な感想。ある種の合理的観点から同質性を求められることで攻撃性が増すなら結局合理的じゃないじゃん!という。ただでさえ、イライラせかせかした人ばっかで自分の性格まで悪くなりそうで困ってるので、ご勘弁いただきたいですね。本当に。他人になにか言われたりやられたりするより、自分がそういう存在になり得ることのほうがずっと嫌だ。クソジジイにならずに死んでゆきたい。

 

 最後になるのだが、このブログは多くの人に読まれるものではなく、むしろ過疎っているので特に心配はしていないが、ひとつだけ誤解していただきたくないことを述べておきたい。というのも、男女二元論異性愛主義の人々、あるいは既存のジェンダー観を再生産する人々をなにか悪く思っているということは一切ないのだ。バカにするつもりもない(はっきり言ってそこまでの興味がない)。自分だって生まれた時代、場所、そして受けることのできた教育が違ったらまたべつの考えだったかもしれないし、そうだったことを考えると恐怖感すら覚える。それに、大学のサークルなどでもよくあることだが、新しい世代が入って急に雰囲気が変わったり価値観が変わったりしたときに上級生は反感を覚えるものだし、それ自体はおそらく仕方のないことなのだろう。ただ、人間であり理性的な存在であるのならば、お互いに排除し合うことなくぬるぬる生きていくのがおそらくそこそこいい感じの道であり、同時に、クソジジイ化を避けることのできる道なのかもしれない。

近頃、妹の性格が悪い。

 タイトルの通りでそれ以上でも以下でもない話を少々失礼。

 

 そもそも性格が悪いというのをどう定義するのかという問題もあるものの、うちの妹の場合で言うのなら、とにかく芸能人へのバッシングが酷い。現実世界で関わりのある相手から嫌な思いをさせられたから悪口を言う、ということなら理解可能なんだが、お前はそのタレントさんに親でも殺されたのか?ってレベルで叩く叩く。特に、容姿への非難が度を超えていて、とてもじゃないけど聞いていられない。人間の容姿なんて「無謬」でないからこそ美しいものだし、「無謬」であるべきと言うならもうちょっと鏡とか見てみたらどうかなと思うけど、そういうことじゃあないんでしょうね。

 昔はこんな子じゃなかったのになぁ。大学に入ってからどんどん性格が悪くなって、社会人になった今は最悪。おそらく察するに、日々いろんな我慢をしていてその鬱憤をどこかにぶつけなきゃ気が済まない、ということなのだろう。たぶん、東大の安冨さんがおっしゃっていたみたいに。

「50年間、自分は男性だと思い込んでいたけど、何か不愉快な感じがあった。ものすごくイラついていて、人を攻撃して叩きのめしたりするのが大好きだった(笑)。ある時、女性の服を着たら精神が安定して、もう男性の服を着ることができなくなった」。

「子どもたちを守りたい」「心に性器は付いていない」埼玉・東松山市長選に挑んだ"女性装"の東大教授に密着 | AbemaTIMES

 

 「社会」人になるうえで「社会」に「適合」しなければならないから抑圧に対して自覚的であってはならないのも、まあ、わからんではないものの、ある種苦しみに藻掻き続けるしかない構造のなかで他の誰かを叩いても解決しないのは明白なわけで。それでも自分が苦しんでいる「理由」がわからないうちはイライラし続けるのが人間というもので。

 極度に「社会化」されるってしんどいですよね。天才的に自覚なく自分自身を騙すことのできる人の強さよ。細々とした社会規範まで自ら望んで身に付けたと無邪気に信じることのできる人はしあわせだろうけど、そういうしあわせな人も案外いなかったりして。でも、みんな「いっせーのーせ」(※関東人ですみません)でやめようとなるまでなにもできない。なにかが違うのに、どこか足りないのに、それが何なのかもわからないし、どうすればいいのかもわからない。わかりやすく社会的弱者でなくとも、説明が難しくても、そういう苦しみは存在すると思う。

 

 うちの妹が今後どうなるのかは知らないけれども、そんな風に他人をバッシングしなきゃ気が済まないほどに日々がストレスフルなら、少しは「社会」から離れた存在になってもいいんじゃないの、とは。仕事をするということと、「社会化」された存在であるということは重なるところはあっても、必ずしもイコールにはならないから。それが完全にイコールでなければならないと信じてやまない人の「暴力」的な言動がやんでほしい、という願いも込めて。

 

 人は胸糞悪い奴として生まれてくるのではなく、環境次第でいくらでも胸糞悪い奴になっていくものだ、というのがわりと貴重な発見だったので妹には感謝。

私は「健常者」を差別しています。

 というタイトルをふと思い付いて書いてみることにしました。が、もちろんここで言う「健常者」は、身体障害がない人とか精神障害がない人とかそういう表面的なことではなくて、当たり前を疑うことなく当たり前に普通を生きている人、そうした特権的な立場を自覚することがないうえに当然の如く他人が自分と同じように生きることを期待するバカのことです。

 ちなみに、「健常者」を差別しているというよりも、そもそも差別用語のつもりで「健常者」という語を使っていると言ったほうがじつは語弊がないかもしれません。などと言いつつ、改めて差別の意味を調べてみたら

特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす

kotobank.jp

とあったので、厳密に言えばせいぜいバカにしてる、くらいなのでしょう。正直、頭悪いな、面倒臭いなと思うだけで不利益を強制するほど興味もなければ関わりたくもない。

 

 さて。なぜ私がそう思うかは簡単で、自分が一般的な定義における健常者だからです。実際は若干怪しい部分もあったりなかったりする気がしないではないのですが、一見して健常者であるが故に「健常者」であることが望まれるのが苦痛で苦痛で。無邪気に想像力の欠如を露呈させているのを見かけると、バカか?バカなのか?と思う次第。いっそのこと、他人を苦しめるためにバカを装ってるという戦略であってほしい。そのくらいに愚かしい。

 

 そんなバカのために少し言葉を割くとすると、世の中には、謎の神秘現象が起きて地球人の親のもとに生まれてしまった宇宙人のようなタイプの人がいるんですね。で、まあ、地球人はバカなので、成長過程で薄々種族が違うのかもと思っても「僕らは家族なんだから血縁は関係ない!」とか言って地球人を育てるように宇宙人を育てるわけです。そして、マーベル作品に出てくるどこかの神様みたいに雷を操ったり、あるいはあるとき突然ムキムキの緑の巨人になって暴れたりすると「どうしちゃったの」とか「僕らの知ってる××じゃない!」とか「こんな子じゃなかった」とか言い出すのです。知らんがな。勝手な幻想を抱いてたのは自分たちじゃねぇか。

 本人が、あーこれ自分地球人じゃねぇわと気付いて申告しても大半の「まとも」な地球人は取り合ってくれません。場合によっては散々警告してるのにも関わらずそれを無視して、地球人として「あるべき姿」を押し付けます。押し付けが成功しないと、地球人らしく振る舞えないお前が悪いと言わんばかりの対応をします。たいていの宇宙人はとっても我慢強いのでなんだかんだそんなもんかと思って(あるいは「適応」できない自分が悪いと思って)やり過ごそうと努力しますが、時折耐えられなくなる宇宙人が出てきてしまいます。思い詰めて、自ら命を絶つ者もいれば、長年の恨みを晴らすべく他人に危害を加えるものもいます。

 とまあ、そんな感じです。

 

 ここで重要なのは、あくまでも地球人と宇宙人は異なる生き物だと言っているだけで、地球人が宇宙人に合わせるべきなどとは言ってないということです。地球人であることを強要しないでもらえれば、たいていの宇宙人はそこそこ暮らしていけます。

 先ほど「地球人らしく」と書いていて自分でなんぞそれ???と思いましたが、ありとあらゆる「らしさ」が、そのくらい曖昧でもいいんじゃないかと思うわけです。もちろん地球人であることを誇りに思いたい人がいるならそれはそれで構わない。けれども、そういう「らしさ」を他者に要求するのはなにか違うんじゃないですか、と。2018年にもなれば幼稚園生でもみんな知ってるんじゃないかってレベルの話をしていました。

 

 なお、マーベル作品だと私はハルクが大好きです。作品単位だと、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』なんですが。笑